「キラキラ星をこぼして」というタイトルの意味
キラキラ高専女子とか、キラキラ企業女子とか、「キラキラ」と「女子」をくっつけた言葉が世の中にごろごろ転がっている。
キラキラ女子になりたい人もたくさんいるのかもしれないけれど私はこの言葉あまり好きじゃない。
今までもなんとなくそう思っていたけれど、決定的に「やっぱりキラキラって違うな」と思ったのは、2017年12月23日に長野市で開催された高専カンファレンス長野3の実行委員長の発表を聞いた時だった。
彼女は5年生で、ロボコンや合唱をやってきて、ファンがたくさんいて、いわゆる「キラキラ高専女子」に見えた。だけど彼女本人が、
「わたしはキラキラ高専女子にはなれなかった」
と言ったのだった。
その日会場にいたほぼ全員が彼女に魅かれて集まっていたし、彼女の5年間は高専を満喫しているというか高専だからこそ出来たこともやっていて、たぶん学校側からしたら「キラキラ高専女子」として紹介していきたいに違いない活躍ぶりだった。
それでもその彼女がキラキラ高専女子にはなれなかったと言っているのを見て、キラキラ高専女子ってなんだろうか、なる必要あるだろうかと思ったのだ。
だからタイトルを「キラキラ星をこぼして」にした。
キラキラ女子だとか、キラキラ高専女子だとか、なりたい人がなればいい。キラキラ星をがっちりつかんで離さない人がきっとキラキラ女子だ。
だけれど多くの女子が、高専女子が、キラキラ星をたくさん手にするチャンスを持ちながら手からそれをこぼしていく。キラキラ高専女子にならずに、ぽろりぽろりとこぼしながら進んでいく。
ぽろりぽろりとこぼしたキラキラ星は彼女の歩んだ道となっていく。
そうして彼女の道は、時々キラキラと輝いたり、時々暗闇になったりしながら描かれていくのだと思った。
そのキラキラ輝く道を見た周りの人が彼女を素敵だなと思う。本人がキラキラ星を腕いっぱいに抱えている必要はない。本人が「私はキラキラ女子です!」という必要はない。
素敵だなと思った彼女の周りに、キラキラ星がたくさんこぼれ落ちているのだなと思った。
私の知る限り、自分自身で「私はキラキラ高専女子です!」と言っている人はいないけれど、もしいるならキラキラ星を必死につかんでいるのだと思う。
自分で「キラキラ高専女子です!」と言わない、輝いている魅力あふれる人はたくさん知っている。彼女たちは星をつかむことにあまり興味がない。だから彼女の周りに、歩いた道に、キラキラが落ちていて彼女へとつながっている。
キラキラ高専女子を否定したいわけではないが、私は上記のように感じたので、むしろキラキラ星は積極的にこぼしてよいなと思う。
次に続く誰かが拾うかもしれないし、誰かの光になっているかもしれないから。