誰かがいなくなることは悲しい
誰かがいなくなることは悲しい。
その誰かと関わって、良い思い出があればあるほど悲しい。
関わらなくなってから時間がたっていても、急に誰かと接した時の記憶が蘇って悲しい。
悲しいという感情は、言葉にするよりもはるかに重く苦しい。
私は記憶を映像で思い出すタイプなので、その誰かと接していたときの、
会話
表情
動作
服装や
髪型
笑った顔
考え込む顔
指の形
まなざし
後ろ姿
その時の空気の温度
風
日差しや
街灯
話さなかったときの遠くから見かけた立ち姿
そういうものがありありと蘇る。
数年前、もう10年は会っていなかった同級生の急逝を知ったときもそうだった。
不思議なもので、調子のいいもので、同級生が旅立ってからは思い出す頻度がグッと増えた。
ふとした時に思い出す。
私に何か出来たかと振り返っても今更すぎて、過去は容赦ない。
何かできるなら今から先にしかなく、同級生の声かけで、長年バラバラだった同級生達が連絡をとりあって集まったり、それを機にゆるくでもつながった。
日々の中にひとつ細い糸端を握るように、一年また一年と、これから先のために関わっていこうとしている。
何かできるならここから先にしかない。
誰かがいなくなることは悲しい。
その悲しさは人生の中で、涙のしずくが沁み込むように心の中に沁みていく。
私はずっと、人生には余白が必要だと思っている。
それがすごく大切だと思っていて、それを伝えていくことを自分の生涯の仕事にしたいと思っている。
どうやったらいいのか、心の奥底でずっと考えているのだけど、考えていても何も動かないなと今日思い知った。
人生には余白が必要だ。
余白のない生活のなんて辛いことだろうか。
余白のない心の、なんて苦しいことだろうか。
できることは、ここから先にしかない。